なにわの台所はいかにして生まれたのか?大阪木津卸売市場 300年の物語

なにわの台所はいかにして生まれたのか?大阪木津卸売市場 300年の物語

 

大阪木津卸売市場の歴史は、単なる一市場の記録にとどまりません。それは「天下の台所」と呼ばれた大阪の食文化そのものの物語です。

江戸時代の小さな野立ち売りから始まり、幕府の統制、市政による廃止の危機、そして戦災という三つの大きな試練を乗り越え、日本最大級の民間卸売市場へと発展を遂げた310年余の軌跡。この歴史を知れば、市場の風景はより一層深みを持って見えてくるはずです。

 

平安時代に遡る「食の聖地」としてのルーツ

木津市場としての直接の歴史は江戸時代に始まりますが、この地と「食」の関わりはさらに古く、平安時代にまで遡ると伝えられています。当時、この地域の「供御人(みくりやくにん)」と呼ばれる人々が、朝廷へ魚介類を奉納していたという伝承が残っており、古くから食の流通拠点としての土壌があったことを示唆しています。

その精神を受け継ぐかのように、現在の木津市場の人々も今宮戎神社の「十日戎献鯛神事」に大鯛(雌雄一対)を奉納し続けており、歴史の深さを今に伝えています。

江戸時代:野立ち売りの誕生(1710年頃)

現在の木津市場の原型が生まれたのは、江戸時代中期の1710年(宝永7年)頃のことです。当時、大坂の正式な魚市場は「雑喉場(ざこば)魚市場」でしたが、人口増加に伴う需要の高まりを受け、水運の便が良い木津の地で、漁師や商人たちが自然発生的に商品を売り始めました。これが「野立ち売り」の始まりです。

 

公認市場への道(1810年 官許)

野立ち売りから約100年後の1810年(文化7年)、木津の市場は大きな転換点を迎えます。当時の大阪代官・篠山十兵衛景義の尽力もあり、ついに幕府から「官許(かんきょ)」を得て、公式な市場として認められたのです。
当時の市場は大国神社の北西部一帯に位置しており、ここから「なにわの台所」としての地位を確立していきました。

 

存置運動と「名を捨て実を取る」知恵(1923〜1931年)

1923年(大正12年)、「中央卸売市場法」の制定により、木津市場は最大の危機に直面します。「一都市一市場」の原則により、廃止対象となったのです。しかし、市場の人々は「市民の生活に不可欠である」として猛烈な存置運動を展開しました。

長年の交渉の末、1931年(昭和6年)に「大阪市中央卸売市場 木津配給所」という名目で存続が決定します。表向きは中央市場の配給所としつつ、実質的な運営の独自性を守るという、まさになにわ商人らしい「名を捨てて実を取る」知恵で危機を乗り越えたのです。

 

戦災からの復興と民間市場としての再出発

1938年(昭和13年)に現在の場所(浪速区敷津東)へ移転しましたが、1945年(昭和20年)の大阪大空襲で市場は全焼します。しかし、終戦後すぐに有志たちが再建に立ち上がり、1950年(昭和25年)には完全民営の「大阪木津卸売市場」として再開場を果たしました。

全国的にも珍しい「民間運営の卸売市場」という形態は、行政主導の市場とは異なる自由闊達な雰囲気と、時代の変化に即応する柔軟さを生み出す源泉となりました。

現代へ:開かれた市場への進化

2010年(平成22年)には大規模な再開発を経て、衛生管理の行き届いた現代的な施設へとリニューアルしました。プロの料理人が信頼を寄せる仕入れの場であると同時に、一般客も楽しめる「開かれた市場」へと進化しています。

特に毎月第2・最終土曜日に開催される「木津の朝市」は、新鮮な食材を求める多くの人々で賑わう人気イベントとして定着しています。

 

木津市場 300年の歩み(略年表)

  • 平安時代:この地域の供御人が朝廷へ魚介類を奉納したと伝わる
  • 1710年頃(宝永年間):野立ち売りの開始(市場の起源)
  • 1810年(文化7年):大阪代官の斡旋により官許を得る
  • 1931年(昭和6年):木津配給所として存続決定
  • 1938年(昭和13年):現在地に移転
  • 1945年(昭和20年):大阪大空襲により全焼
  • 1950年(昭和25年):民営の大阪木津卸売市場として再開場
  • 2010年(平成22年):施設リニューアル グランドオープン

 

基本情報

住所:〒556-0012 大阪市浪速区敷津東2丁目2-8

アクセス:大阪メトロ御堂筋線・四ツ橋線「大国町駅」①出口より徒歩3分

木津の朝市:毎月第2・最終土曜日 午前9時〜正午

公式サイトhttps://kiduichiba.jp/

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